上代文学会

前年度の大会・秋季大会・例会

(1) 大会案内

2007年度大会
期  日平成19年5月19日(土)、20日(日)、21日(月)
会  場同志社大学今出川キャンパス 至誠館3階
(地下鉄烏丸線「今出川」駅から徒歩1分。京阪「出町柳」駅から徒歩15分)
〒602-8580 京都市上京区今出川通り烏丸東入
電話 075-251-3423(駒木敏研究室)
075-251-3371(文学部研究室事務室)
日  程
19日(土)
理 事 会(正午〜午後1時50分)
同志社大学今出川キャンパス 至誠館3階 会議室
公開講演会(午後2時〜4時30分) 同志社大学今出川キャンパス 至誠館3階S32番教室
学会挨拶
代表理事 藤原 茂樹
挨拶
同志社大学文学部長 斉藤 延喜
歌人人麻呂の背景
同志社女子大学教授 寺川 眞知夫
萬葉における表現と形式-願望・疑問・希求・命令表現について-
二松学舎大学大学院教授 白藤 禮幸
上代文学会賞贈呈式(午後4時30分〜4時40分)
総  会(午後4時40分〜5時30分)
懇 親 会(午後6時30分〜8時30分)
会場 からすま京都ホテル
地下鉄烏丸線「四条」駅下車(南出口6)すぐ(同志社大学から地下鉄で三駅ほど移動)。
阪急「烏丸」駅下車(西出口23)
〒600-3412 京都市下京区烏丸通四条下ル
電話 075-371-0111
会費 8000円
― 20日(日) ―
研究発表会(午前9時30分〜午後4時40分)
同志社大学今出川キャンパス 至誠館3階S32番教室

《午前の部》
『出雲国風土記』の想定読者-「所謂」という表現形式から-
早稲田大学助手 伊藤 剣
(司会 上智大学教授 瀬間 正之)
『古事記』における宇遅能和紀郎子について
昭和女子大学大学院研究生 金澤 和美
(司会 國學院大學兼任講師 谷口 雅博)
神功皇后の神憑り伝承について
國學院大學兼任講師 山 かおり
(司会 早稲田大学非常勤講師 工藤 浩)
――昼食――
《午後の部》
万葉集の梅柳-「大宰の時の梅花に追和する新しき歌」をめぐって-
多摩大学目黒高等学校教諭 松田 聡
(司会 フェリス女学院大学助教授 松田 浩)
「日本挽歌」作品考
鹿児島大学非常勤講師 富原カンナ
(司会 信州大学講師 西 一夫)
持統・文武朝の長反歌形式-「反歌」「短歌」の頭書をめぐって-
東洋大学教授 菊地 義裕
(司会 日本女子大学教授 平舘 英子)
拾遺歌巻と天・地・人の構成
千葉商科大学教授 江口 洌
(司会 専修大学教授 西條 勉)
― 21日(月) ―
臨地研究「山背路を歩く」(午前8時30分〜午後5時)
一、集合場所 京都駅八条口・観光バス駐車場
一、集合時間 午前8時30分
一、見学コース 久世神社〜正道官衙〜井堤寺跡〜月読神社〜筒城宮顕彰碑〜(昼食)〜蟹満寺〜椿井大塚山古墳〜高麗寺〜恭仁宮跡〜近鉄「高の原」駅(一次解散)〜京都駅(二次解散)
一、案内 辰巳和弘(同志社大学歴史資料館教授)・上野誠(奈良大学教授)
一、費用 7000円(バス代・見学・昼食代を含む)
一、人数 郵便振替での参加費用受領順に45名で締め切ります。

☆返信用ハガキについて
・大会参加の申込みは、同封のハガキ(同志社大学文学部駒木敏研究室宛)に必要事項を記入して、4月21日(土)までに必ず届くようにお送り下さい。
☆費用について
・費用(研究発表資料集代1000円、懇親会費8000円、20日昼食代1000円、臨地研究参加費7000円)は、同封の振替用紙を使用し、郵便振替で、口座名「駒木敏」(口座番号00930-0-168636)宛に、4月21日(土)までに振り込んで下さい。
・19日の理事会に出席される理事は、昼食代(1000円)を、同様に振替用紙で納入して下さい。
☆昼食について
・20日の昼食が必要な方は、必ず事前にお申し込みの上、ご入金願います。
・会場周辺には、日曜日営業のコンビニはありますが、大型店舗はございません。
☆宿泊・交通について
・各自でお申し込み下さい。
☆出張依頼状について
・出張依頼状は、学会事務局(慶應義塾大学文学部・藤原茂樹研究室)に、提出先と職名を明記の上、返信用封筒に 80円切手を貼ってお申込み下さい。
※学会事務局(慶應義塾大学文学部・藤原茂樹研究室)
〒108-8345 東京都港区三田2-15-45  慶應義塾大学文学部藤原茂樹研究室内
電 話・FAX03-5427-1208
Eメールkeiojodai@yahoo.co.jp
☆大会に関する問い合わせ
・同志社大学今出川キャンパス 駒木敏研究室 〒602-8580 京都市上京区今出川通り烏丸東入
電話 075-251-3423(駒木敏研究室)
075-251-3371(文学部研究室事務室)


(2) 秋季大会案内

上代文学会秋季大会シンポジウム
日  時二〇〇七年十一月十日(土)午後二時〜五時三十分
会  場日本女子大学 香雪館401室
〒112-8681
東京都文京区目白台2-8-1
テ ー マ五・七音数律とは何か――字余り研究が拓いたものと拓くべきもの
古代和歌の字余りについての研究が新たな局面を迎えそうな形勢である。句中に単独母音を含むという基本条件に加え、奇数番句と偶数番句とで様相が異なることもほぼ明らかになっているが、目下の議論の焦点は、偶数番句のありようをどう整合的に把握するか、という点に移りつつある。
文学研究の徒もこれを座視するわけにはいかないだろう。古代和歌の定型についてこの際とっくり考え直してみようではないか。
音数律の具体相にどこまで肉薄できるか、という点が従来の課題だったし、今後も基本的な論点でありつづけるだろう。が、それ以上に、音数律とはそもそもどういう次元で成り立つものか、という点をも避けては通れないはずだ。具体的には、誦詠法(または律読法)が音数律を規定したという従来の把握は、はたして正当なのだろうか。正当だとすれば、「規定」のメカニズムはどう掘り下げることが可能か。また正当でないとすれば、どんな代案がありえるか。
曲がり角にさしかかったと言われて久しい上代文学研究・古典研究に活を入れるためにも、講師と会場とが一体となって、白熱した議論が展開されることを期待してやまない。
講師および講演題目 字余りの様相と唱詠法
聖心女子大学教授 山口佳紀氏
字余りを許容する定型とは、どのようなものか?
専修大学教授 西條勉氏
五・七音数律は誦詠法に規定されたものか
東京大学准教授 品田悦一氏
司会 早稲田大学教授 内藤明氏
講演要旨 字余りの様相と唱詠法
山口佳紀
古代和歌(ここでは万葉和歌、特に短歌を対象にして考える)の字余り歌には、ほとんどの場合、句中に単独母音が含まれていることは、本居宣長以来、広く知られている。その後、研究は進んだが、次第に注目されるようになったのは、短歌で言えば、奇数番句(第一・三・五句)と偶数番句(第二・四句)とにおける様相の違いである。前者では、句中に単独母音を含むものはほとんど字余り句になるのに対して、後者では、非字余り句は字余り句よりも多く、字余り句のほぼ三倍にも達する。これは、(1)奇数番句においては一句が一続きに唱詠されたこと、また、(2)偶数番句においては一句が二分されて唱詠されるのが基本であったこと、を意味すると考えられる。
なお、偶数番句は、どこで二分されたかが問題になる。その点は、構文的に見て、切れるところで二分されたものと考えるのが自然であり、実際の調査でも、それを裏づけることができる。
ここで「唱詠」という語を使ったが、詳しくいえば、和歌に対しては音楽的な「歌唱」と、音楽から離れた「律読」とがあったと思われる。後世の発言ではあるが、「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに」(藤原俊成『古来風躰抄』)とあるのは、その二類の区別に対応するものであろう。和歌に音数律があるのは、「律読」を前提とするからで、その場合は、一音の長さを一定にして、CV も CVV も同じ長さに発音されたものと考えられる(C=子音、V=母音の意)。ただし、CV と V との間に切れ目が入る場合は、二音と見なされたということになる。
なお、CV を二音分にも三音分にも延ばして発音してよいならば、音数を五音・七音に揃える必要はない。『琴歌譜』を見ると、随所に延音が現れるが、それは「歌唱」の場合であって、別に扱うべきものである。



字余りを許容する定型とは、どのようなものか?
西條 勉
万葉集の字余りは、文字数で五字七字を超えていても、じっさいの誦詠では音余りにはならないとされる。しかし、これは文字の側からの見方である。歌は声で作られる。
声の側から言えば、字余りとは、声で定型に詠まれた歌が文字化されると非定型になる現象である。声における音の分節が、書くことによる分節と一致せず、しかも、文字の次元では定型をなさない。定型は、声の次元で成り立っているのである。
声の定型は二音一単位の法則(福士幸次郎)、強弱アクセントの法則(相良守良)、四拍子の法則(高橋龍雄)等で成り立つ。それは音数律としてではなく、詠むときのリズム形式として意識されていた。二音で強弱アクセントが回帰する四拍子型である。この型がまずあり、それに合わせて歌が詠まれた。じじつ、単独母音を含む句を、この四拍子定型に当てはめてみると、非字余り句は、単独母音が自律したままで、すべてこれに合致する。また、字余り句は四拍子のリズムで詠むと、単独母音が自律性を失って約音される。
字余り句が四拍子定型におさまる理由は、声の次元では橋本法則が成り立っており、単独母音が非自律化するからである。ところが、文字に書かれるときは「丁寧な発音」(有坂秀世)で分節されるため、単独母音が自律する。ここに、いわゆる字余りが生ずる。つまり、字余りとは、声の側からみれば母音の約音化のことなのである。
母音が縮約されると、意味とリズムがずれて、シンコペーション的な連続性が生み出される。この作用によって、圧倒的に字余りの多い五音句と結句は連続調になり、非字余りの方が多い七音句は断続調が優勢になる。これは、短句一文節、長句二文節、結句は終息形のかたちで成立した和歌定型の構造に規制されている。



五・七音数律は誦詠法に規定されたものか
品田悦一
和歌の五・七音数律はどのような次元のものか。また、いつ、どのようにして生成したのか。 歌われる旋律から直接生じたのでないことは、記・紀歌謡の歌詞のありさまを思えば直ちに納得されるところだろう。が、だからと言って、文字化が定型化を促したと見るわけにも行かない。訓字主体の書式の場合、一句あたりの文字数はまちまちであるし、そもそも一定の音数律があってはじめて一定の読み方が可能となる。一字一音式の書式にしても、一句あたりの文字数は必ずしも五字・七字には揃わない。ある条件のもとで法則的に字余りが生ずるからだ。
歌うことと書くことの中を取って、誦詠(ないし律読)に定型化の要因を求める見解がある。旋律的に歌うのとは異なる誦詠法がある時期に発達したことを想定し、それが和歌の音数律を準備したと捉えるもので、早く神野富一氏が提唱し、最近では西條勉氏が精力的に展開している考えだ。他方、字余り現象そのものの法則的把握を目指す研究者たちも、短歌の奇数番句と偶数番句との様相の相違を誦詠法の反映と解釈する傾向にある。
だが、私はこの見解に賛成できない。五・七音数律とは歌詞それ自体に内在するリズムであって、そのリズムは誦詠に対し原理的に優先するはずだと思う。歌詞に一定のリズムがないところでは、リズミカルに誦詠するということ自体がありえないのではないか。誦詠法が音数律を規定したという考えは、転倒しているか、少なくとも循環しているように見受けられる。
対案を示そう。五・七音数律は、歌詞を音声化することにではなく、覚え込むことに関わって生成したのではなかろうか。七世紀中葉、雅楽寮の前身にあたる部署が軌道に乗り、歌を伝承する営みが本格化した。それまで即興的に拵えてはその場の感興を満たすものだった歌が、さまざまな旋律にのせて後世に伝えられることとなって、大量の歌詞を楽人たちが記憶する必要から、歌詞に一定の規格が設けられた。とりわけ短歌は、無理なく覚え込める長さだったことが幸いして、宮廷人一般に歓迎され、やがて彼らの文芸形式へと成長していった。
記憶の引き出しにしまって随時取り出せること――それは短歌形式のもつ本質的な側面であり、おそらく強みでもあったように思われる。

上代文学会秋季大会 二日目(研究発表会)御案内
日  時平成十九年十一月十一日(日)午後一時〜五時
会  場日本女子大学 百年館低層棟 五階 506室
研究発表 倭建命の追放
早稲田大学助手 松本弘毅
(司会 埼玉大学准教授 飯泉健司)
放りゆく人、そのこころ───石見相聞歌について───
日本女子大学教授 平舘英子
(司会 東洋大学教授 菊地義裕)
神亀四年正月の落雷───6・九四八〜九四九番歌について───
大阪府立大学教授 村田右富実
(司会 早稲田大学教授 高松寿夫)
発表要旨 倭建命の追放
松本弘毅
古事記・日本書紀共に、第十二代景行天皇の子としてヤマトタケルなる人物がいたことを記している。その最大の功績は東西平定に大きく貢献したことであるが、両書において彼の処遇は大きな異なりを見せている。すなわち、書紀の日本武尊は優秀な皇族将軍といえる人物であるが、古事記の倭建命は父から疎まれて追放され、遂に異郷で死を迎えた悲劇の英雄と評し得る人物である。
 このように異端の人物として位置づける一方で、古事記が倭建命に対して並々ならぬ敬意を払っていることも夙に指摘されている。敬語の使用は天皇に準ずるという言い方もされており、また他にも美夜受比売による「高光る 日の御子 やすみしし 我が大君」という歌い出しや、その死後、「御葬」に歌われたとする四首が「今」に至るまで天皇の「大御葬」に歌われているという点からも、古事記が倭建命を至高の存在として扱っていることがわかる。
 古事記の表現は一貫して倭建命を英雄として遇していると捉えられるが、そうした扱いと景行からの追放処分はどのような関係にあると考えるべきだろうか。大碓命を残忍な方法で殺害した小碓命(倭建命)が、これをよしとしない景行によって追いやられるとするのが通説的見方であるが、女性の横領、また大御食の欠席という罪を重ねる大碓命を糾弾しない景行の論理にこそ特徴があるのであり、倭建命はそうした判断をする景行によって追放されていると見るのが発表者の立場である。
景行記冒頭の大碓命が登場する説話を通して景行の性格を描き、倭建命が追放される必然性を記していると考えるが、そうした構成を古事記がなぜとったのか、ヤマトタケルがかつて「王」として認識されていたことから論じてみたい。



放りゆく人、そのこころ ── 石見相聞歌について──
平舘英子
 石見相聞歌については、第一歌群・或本歌群そして第二歌群の成立順、及び作品の時間性・空間性から分析される構成を始め、作品中の語句の理解にまでわたって、詳細に論じられてきているが、従来の研究の多くは、石見相聞歌の構成を「われ(人麻呂)」が妻と別れてゆく、その実態的な場面として把握することで、その表現を理解しようとするものであったと思われる。そこで本発表ではそうした実態性から少し離れて考察してみたい。
 石見相聞歌の主題が「妻との別れ」にあることに異論はないであろう。『萬葉集』歌の中で、「妻との別れ」を主題とする歌は石見相聞歌が初出ではないかと思われる。人麻呂は「妻との別れ」という主題をいかに把握し、その構成と表現を工夫したのであろうか。中国詩においては「別」は主要な主題であったと推測される。例えば、『藝文類聚』には「別」の部が上下巻として見える。まず「悲兮悲兮生離別」(楚辞)の情が見え、友人或いは妻との「別」を詠じている。「別」の内容には「別れてあること」「別れへの嘆き」が見られるのに対して、石見相聞歌は「別れ」そのものを主題としている。そこに表現されるのは「放りゆく人」と「そのこころ」である。人麻呂以前では、顕宗天皇と置目の老媼との「別れ」が「明日よりは み山隠りて 見えずかもあらむ」(記一一二・紀重出)と歌われ、額田王の「下二近江国一時」歌では「情けなく 雲の 隠さふべしや」と「別れ」の対象が見えないことを詠んでいる。石見相聞歌が見ようとすること、見えないことを歌う表現方法に発想の伝統性を窺わせる。また、一三一番歌で妻の姿が石見の景を詠む長い序詞に導かれていることには、妻の里の景というだけでなく、放りゆく人のこころに根ざした妻の印象が海から風・波に寄せられてきた妻であるかのようにも読むことができるのではないか。「妻との別れ」という主題に対する人麻呂の表現方法を探りたい。



神亀四年正月の落雷 ── 6・九四八〜九四九番歌について──
村田右富実
 万葉集巻六には「(神亀)四年丁卯春正月勅諸王諸臣子等散禁於授刀寮時作歌一首 并短歌」という題詞に括られた作品(6・九四八〜九四九)が掲載されている(以下、当該歌という)。左注によれば、当該歌は、神亀四年正月に雷が鳴り、その時に「打毬之楽」をなしていた「王子及諸臣子等」が「授刀寮」に「散禁」され、そのことを「悒憤」して当該歌を作ったという。同じく左注には「作者未詳」とあり、作者は不明であるが、作歌事情は極めて明白である。
 しかし、当該歌は先行研究に恵まれない。管見に入った論文は三本にすぎない。そして、いずれも当該歌の表現分析を中心にするものではなく、当該歌を産み出した当時の社会的背景や文学史が論の中心となっている。たしかに「事件が事件だけに、佳作のできるはずはないので、この程度なら致し方があるまい。」(『増訂 万葉集全註釈』)と評されるように、歌そのものへの評価は低いし、これをあえて否定するつもりもない。けれども、神亀年間の和歌状況を考えるにあたって、当該歌の表現を丹念に追うことは無駄ではないと思われる。
 本発表では、当該歌に見られる不安定な訓を安定させることから始める。そして、当該歌の表現を万葉集全体の中で相対的に捉えることを通じて、当該歌の方法を見ようとする



(3) 例会案内

上代文学会1月例会御案内
期  日平成20年1月12日(土)午後2時〜5時
会  場二松学舎大学 2階 201教室
研究発表 『古事記』における歌と散文―大山守命の物語をめぐって
東京大学大学院 馬場小百合
(司会 國學院大學教授 青木周平)
奈良朝後期漢文書簡の表現―萬葉集所載の書簡表現を中心に―
信州大学准教授 西 一 夫
(司会 二松学舎大学教授 針原孝之)
発表要旨 『古事記』における歌と散文―大山守命の物語をめぐって 馬場小百合

 応神記における大山守命の反乱の物語、そこに含まれる宇遅能和紀郎子の歌については、従来その把握をめぐって散文との矛盾が指摘されてきた。
 例えば土橋寛『古代歌謡全注釈』は「宇遅能若紀郎子が大山守を殺したあとの歌であるから、この句はふさわしくない。」といい、既に討ち取っているのに歌では「い伐らずそ来る」というのは矛盾だとし、この歌を「今見る所伝とは異なる所伝を背景とした物語歌」だとして解決する。
 しかし、土橋説のように、矛盾するように見える歌を散文と切り離して納得してよいだろうか。あくまで歌は『古事記』という文字テキストの中に、文字によって書かれた姿でしか今我々の前にないのであり、そのような解決の仕方では『古事記』を読むことにはならないだろう。歌の叙述と散文の叙述が、それぞれ別な叙述として『古事記』の叙述を成り立たせるのだという基本的な認識に立ちつつ、まずは「矛盾」のように見えるものが、実は歌や散文の理解不足によるのではないかと問い直したい。散文の読みについて、「故、大山守命の骨は、那良山に葬りき。」という部分に注目し、新たな把握を試みる。
 『古事記』に現れる数々の反逆者のうち、大山守命のようにその埋葬が語られる者は、ほかに見えない。明らかにその扱いは特殊なのであり、また大山守命の死に「殺」が使われないことも傍証として、散文の叙述は、反逆者としてではない死が大山守命に与えられたことを意味するのだと考えたい。そのような把握に立ったとき、改めて歌は散文と呼応する形で理解することが可能であろう。歌の「い伐らずそ来る」は、「反逆者として討ち滅ぼすことができなかった」と理解できるのであり、歌の表現は宇遅能和紀郎子の煩悶や苦悩を表し出す。それは訓主体の散文の叙述では表しえなかったものであった。
 歌と散文が呼応しつつ、しかし別な叙述として併存しながら物語を表し出すさまを見届け、『古事記』の叙述の方法に迫りたい。

奈良朝後期漢文書簡の表現―萬葉集所載の書簡表現を中心に― 西一夫

 萬葉集には、歌本文に付随する題詞・左注の他に、漢字文で記された序・書簡文などが存する。なかでも書簡文については、これまでに歌の内容との関連を中心に考察を行ってきた。だが、その反面、同時代資料として正倉院の文書類にも内容が類似する文書が残り、それらの文書の表現との比較検討は重要な課題であるにも関わらず、十分に行われてきたとは言い難い面がある。また同様な状況にあるのは、敦煌文書や吐魯番文書に残る書儀・尺牘類との検討も、その一つである。
 後者の書儀については、制度史・社会史の面から書儀類を研究対象とするのみならず、趙和平氏による写本校合テキストが提供されたのを契機として表現や形式などにも研究領域が拡充している。こうした成果が近年具体的な表現研究の成果(王啓壽『吐魯番出土文書詞語考釈』、張小豔『敦煌書儀語言研究』等)として結実している。
 また前者の正倉院文書については、丸山裕美子氏が正倉院文書における書儀の受容実態を明らかにされている。丸山氏は、書簡の形式面を中心に考察され、正倉院文書での書儀受容の特質を示された。さらに「請暇解」の訓読と注釈が精力的に行われた結果、これらの文書における表現の特徴が浮き彫りにされている。加えて、正倉院文書の個々の表現に対する検索が可能となったことから、これまで以上に表現研究の進展が見込める段階となった。
 かかる関連領域の成果を踏まえて萬葉集所載の書簡表現を漢字文の表現として捉え、受容関係にとどまらず同時代資料のなかで位置付けをおこなうことが可能となった。本発表では、従来あまり触れられることのなかった書簡文の表現を取り上げ、漢文書簡や書儀での表現、さらには二王を中心とする六朝期の尺牘類との表現比較と検討をおこなう。
 具体的には、@「謹上」と「謹状」の関係について、A相手の書簡文を意味する表現と自らの書簡文を意味する表現について、B「恋」に関わる表現について考察をおこなう。

○研究発表終了後、常任理事会(於、11階1103会議室)を開催します。

上代文学会12月例会御案内
期  日平成19年12月8日(土)午後2時〜5時
会  場東洋大学 白山キャンパス 6号館3階 6311教室
研究発表 神女への恋―和歌における文人志向―
奈良県立万葉文化館 井上さやか
(司会 日本大学教授 梶川信行)
大山守命反乱物語の歌と散文
國學院大學兼任講師 谷口 雅博
(司会 明治大学教授 居駒永幸)
発表要旨 神女への恋―和歌における文人志向― 井上さやか

本発表で取り上げる歌は、山部赤人の「春日野に登りて作る歌」(三三七二、三七三)である。当該歌については、緒方惟章氏が仮構の恋を主題にした公的な宴席歌であるとして以来、おおむねそのように解釈されてきた。類想的な恋歌の表現を用いていることが認められる一方で、挽歌に特徴的な表現の利用が指摘され、その意義が何であったのかが問われてもきた。近年では、仮構の恋という主題が中国文学の影響によるものとされており、当該歌の背景として『玉台新詠』の春思詩を指摘する村山出氏の論や、題詞から登高詩の影響を指摘した辰巳正明氏の論などがある。そのほか従来説の多くが当該歌を仮構の恋を主題化して詠んだ歌であるとする点で共通しているといえ、その意味では発表者も同じ立場に立つ。
ただ、なぜ仮構の恋の対象が「相はぬ児」として表現されなければならなかったのか、そしてその対象への切実な恋情を表出させるためになぜ「春日野に登る」と題して「三笠山」の「雲」や「鳥」を詠んだのかという点については、いまだ明解とは言い難いのではないか。
このことは赤人歌の表現性の根本にも関わる問題である。赤人の評価はおおむね叙景歌人という点に集約されるが、それが近代的な概念であることはすでに指摘されているところである。では、後世に叙景と見なされた表現とは、いったい古代の和歌としてはどのような現象だったのだろうか。
そこで本発表では、すでに指摘されている中国文学の影響を踏まえた上で、さらに当該歌にみえる文人志向について考えてみたい。琴・詩・酒および書画に重きを置く六朝文人の態度は、自然物の注視による描写とそれを表現する際の絵画的構図、さらには画中詠・画外詠といった方法を持つに至る。当該歌にも近接する点があるといえ、そこに近現代に叙景として享受された和歌表現の質の一端をうかがうことができると考える次第である。

大山守命反乱物語の歌と散文 谷口雅博

『古事記』応神天皇条には、大山守命の反乱の物語が記されている。その中には、大山守命が宇治川に沈んで亡くなった後、討伐者である弟皇子の宇治能和紀郎子が詠んだ歌が記載されている(記51歌)。仁徳天皇即位前紀にも同じく反乱の記事があり、多少歌詞が異なるものの殆ど共通する歌が載っている(紀43歌)。歌の末には「い伐らずそ来る梓弓檀」とあり、「檀」は討たれた大山守命を指すと見られているが、討伐した大山守命に対して「い伐らずそ来る」と歌うのは、散文の内容と合わないということで問題とされてきた。『古事記』の場合、すぐには殺せず、川を流れて行く大山守命の後を追いつつ訶和羅前まで来たということを、「檀」に譬えて表わしたのが「い伐らずそ来る」だとする見方がある(本居宣長)。そして物語を見れば宇治能和紀郎子は大山守命を助けようとしたという内容が読み取れ、歌によってその理由・心情が明確化されるとも説かれている(山口佳紀)。歌と散文とを整合的に理解しようとする立場を取るならば、その見解は首肯される。だが、『日本書紀』の場合には「遂に沈みて死せぬ。其の屍を求めしむるに、考羅済に泛でたり。」とあり、沈んだ後に、「屍」を求めたことになっている。従って、「い伐らずそ来る」と歌う理由には、整合的な理解とは異なる見方が必要になるのではないか。また、記紀ともに散文部には語られない「妹」が歌に詠みこまれる点も問題を残している。
本発表では、大山守命を死なせたことに対する表現しがたい複雑な心理を譬喩的に表現しうる方法としてこの歌が詠まれたと見る説(益田勝実)や、「檀」を大山守命の譬喩と見ずに、大山守命とその妻とのゆかりの木と見る説(居駒永幸)等を参照し、散文表現とは別次元の歌表現を合わせることで、物語の充足が図られているのではないか、という可能性について若干の考察を試みる。

○研究発表終了後、常任理事会(於、6号館4階 文学部会議室)を開催します

上代文学会2007年度9月例会御案内
期  日平成19年9月8日(土)午後2時〜5時
会  場日本女子大学 百年館低層棟 5階 506室
研究発表 日本武尊の東征にみる「徳」
奈良県立万葉文化館 万葉古代学研究所主任研究員 大館真晴
(司会 東洋大学教授 菊地義裕)
ユーラシア遊牧民習俗の中の落雷と走り馬―小子部栖軽と上賀茂神社祭儀―
聖徳大学教授 山口 博
(司会 二松学舎大学教授 針原孝之)
発表要旨 日本武尊の東征にみる「徳」 大館真晴

『日本書紀』巻七・景行天皇四十年七月条には、景行天皇と日本武尊との間によって行われた、蝦夷の征討に関わる長大な会話文が記載されている。この会話文の表現上の特徴は漢籍による文飾にあり、早くは『書紀集解』などによって、『礼記』・『文選』などの出典が数多く指摘されている。
今回の考察で主にとりあげるのは、先の会話文中にある「示之以威、懐之以徳」、「天皇之威、往臨其境、示以徳教」という表現である。前者は景行天皇が日本武尊に対して蝦夷征討の指示を与えたもので、後者は、日本武尊が景行天皇に対して、その返答を述べたものである。この一連の会話文に関しても、すでに詳細な出典研究が行われており、文飾の目的に関しても、景行天皇や日本武尊を中国の聖天子の姿に重ねるためなどの指摘がなされている。これらの指摘はまさに正鵠を得ているといえ、中国思想の影響を受けた表現であるということは動かしがたい事実といえよう。しかし、これらの「徳」に関わる表現に関しては、その解釈において再検討の余地があるものと考えられる。なぜなら『日本書紀』の「徳」の用字法をみてみると、爰に女人有り。神夏磯媛と曰ふ。・・・ 則ち磯津山の賢木を抜りて、上枝には八握劒を挂け、中枝には八咫鏡を挂け、下枝には八尺瓊を挂け、亦素幡を船の舳に樹てて、参向て啓して曰さく、「願はくは兵をな下しそ。我が属類、必に違きたてまつる者有らじ。今将に帰徳ひなむ。」(景行天皇十二年九月条)
などの極めて日本的ともいえる文脈の中で用いられる「徳」の用字法があり、一概に中国思想の影響とばかりは言えないような用字法も散見できるからである。
本発表では、『日本書紀』にみる「徳」というものを、神との関わりの中で再検討することで、『日本書紀』の徳化・王化のあり方というものを改めて問い直していければと考えている。

ユーラシア遊牧民習俗の中の落雷と走り馬
―小子部栖軽と上賀茂神社祭儀― 山口 博

栖軽は雄略の命により雷神を捕まえるために、飛鳥の豊浦寺の前の道を上つ道と下つ道の間、馬を走らせて往復したと、『日本霊異記』は語る。『秦氏本系帳』は、欽明朝に賀茂の別雷神の祟りを鎮めるために馬を走らせたが、それが上賀茂神社で別雷神を迎える葵祭の走り馬の祭儀になったと言う。別雷神を迎えるのも一種の落雷であるが、落雷と走り馬のセットは、古代日本固有の習俗ではなく、ユーラシア遊牧民の習俗であった。
紀元前から唐時代に至るまで、モンゴル高原の有力なトルコ系遊牧民高車族は、落雷の地でシャーマンに呪術を行わせ、周囲を騎馬隊が百回程廻るという。二十世紀初頭のモンゴルでも、落雷があるとシャーマンの所に暴れ馬を連れて行き、シャーマンはその暴れ馬を御して落雷の地で呪術を行う。そのシャーマンは宝剣と旗を手にするが、栖軽も幡を付けた桙を手にしていた。上賀茂神社の走り馬もシャーマンの託宣による。
上賀茂神社の祭儀には、走り馬と共に猪頭を被った人も走る。高車族においても落雷の祭儀で、女は皮で包んだ羊の遺骸を頭の上に載せる。獣頭を被る習俗の変貌した姿である。七世紀モンゴル高原に居た高車族族長の許に狼頭の人が現れて未来を予言した話もある。契丹祖先のある君主は、野猪の頭を戴き、野猪の皮を着ていた。遊牧民は動物の毛皮や仮面を着けて祭儀を行ったが、上賀茂神社の猪頭は、それと同種と考えられる。
上賀茂神社や高車族の走り馬は、天上の神の降臨行事である。上賀茂神社では降臨した神を榊に移して、御阿礼所の前の立砂を三度廻る。高車族も落雷の地で柳の枝を持って廻る。
落雷に関する上賀茂神社と高車族やモンゴル人に代表される遊牧民との祭儀は、酷似する。直接的関係があるのではないか。別雷神の祭祀を司った渡来系氏族秦氏の存在が注目されるのである。秦氏―百済―前秦(四世紀)―高車族というミッシング・リンクからこの問題を考えてみたい。

◎研究発表終了後、常任理事会(於、百年館高層棟五階会議室五〇四)を開催します

上代文学会2007年度7月例会御案内
期  日平成19年7月14日(土)午後2時〜5時
会  場日本女子大学 新泉山館 2階会議室1・2(交通は裏面地図参照)
研究発表 出雲娘子の火葬を詠む歌―河辺宮人の歌(二二八・二二九番歌)との比較を通して―
國學院大學大学院生 倉住 薫
(司会 東洋大学教授 菊地義裕)
荷田春満の万葉集研究とその継承―春満から真淵へ―
國學院大學兼任講師 城ア 陽子
(司会 青山学院大学教授 小川靖彦)
発表要旨 出雲娘子の火葬を詠む歌
―河辺宮人の歌(二二八・二二九番歌)との比較を通して― 倉住 薫

溺れ死にし出雲娘子を吉野に火葬りし時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌二首
山の際ゆ 出雲の児らは 霧なれや 吉野の山の 嶺にたなびく(B四二九)
やくもさす 出雲の児らが 黒髪は 吉野の川の 沖になづさふ(B四三〇)
右の二首は、巻三の挽歌部に収められている柿本人麻呂の歌である。挽歌では、通常、死別への哀惜や亡くなった相手を偲ぶ思いが詠み込まれる。しかし、この二首には、感情を示す表現は用いられておらず、「霧」と「藻」という景によって出雲娘子をイメージする歌となっている。 青木生子氏は、溺死した娘子を詠んだ二二九番歌の「沈みにし 妹が姿を 見まく苦しも」と結びつけて四三〇番歌を解釈している。しかし、イメージされるものは、二二九番歌では、生々しい溺死体であるのに対し、四三〇番歌では、女性の美しさなのである。その姿は、死者でありながら、まるで生けるがごとき輝きを放っている。人麻呂は、火葬された出雲娘子をどのような存在として描いたのであろうか。 そもそも、二二九番歌と四三〇番歌の死者の描写の相違には、火葬によってもたらされた死生観が深く関わっている。火葬によってもたらされた新たな死生観が、出雲娘子の火葬を詠む歌に反映され、景を中心とする歌いぶりになっているのではないか。殯宮挽歌は、永遠性を象徴する山や川を相手を偲ぶよすがとして詠み込むのであるが、この二首では、永遠の存在としての景ではなく、たなびく「霧」とただよう「藻」が詠み込まれている。すなわち、形の定まらない曖昧さや不定型さを特徴とする景から亡くなった相手を想起するという、新たな形見の発見を示す歌として、この二首を万葉集の挽歌史の中に位置づけることが可能なのではないか。

荷田春満の万葉集研究とその継承―春満から真淵へ― 城ア 陽子

荷田春満から賀茂真淵という学問の流れは、その師弟関係において了解されている。その内実については、真淵の注釈に現れる春満への言及に見られるが、個々の事例解釈の問題として近視眼的にみられる傾向にあったのではなかろうか。 春満の万葉集研究については、「躍進期」において神祇道学的解釈を特徴としており(拙稿「荷田春満の万葉集研究−『万葉問答』から『万葉集童子問』へ−」『國學院大學日本文化研究所紀要』第96輯、平成17・9)こうした春満の万葉集研究を支えたのが「本朝詠道すたれて風花雪月の翫草となる事のかなしきを悔」んだという春満の思想性であった。この思想性が真淵の『歌意考』にいうところの古歌習得と復古の実践というかたちで真淵に引き継がれていったのである(拙稿「荷田春満の万葉集研究−『万葉問答』にみる神祇道学的解釈−」『国文学 言語と文芸』122号、平成17・12)。
しかし、以上に記した春満から真淵へという見通しは注釈に現れる思想的な言及に限って取り上げたことであり、この思想史的な流れが、具体的な解釈に裏付けされて言及されることが充分であったとは言い難い。
本発表においては、春満がいうところの「冠辞」に視点をあて、春満の万葉集研究の中でも初期の注釈である『万葉問答』と真淵の『冠辞考』を比較することによって、具体的な解釈の面で春満の思想性がどのように真淵に流れていったかという点を再検討する。  真淵の『冠辞考』では春満の「冠辞」解釈をそのまま享受する事例もあり、春満説を集約し、整理することが真淵の「冠辞」に対する説へとなっている。こうした事例が真淵の春満継承の一面であるならば、真淵が「冠辞」を「天地のしらべ」というキーワードに集約するその論理の淵源は、春満が神祇道学的見地から「冠辞」へむけた眼差しと、「歌とはなにか」という至極根本的な問題にあったことを述べる。

○研究発表終了後、常任理事会(於、百年館高層棟3階 会議室301)を開催します。

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